川和保育園とは
川和保育園の歩み
川和保育園創立者寺田 キク(1901~1990)
※1986年に書かれた文章です
昭和3年、私(高司キク)は横浜の共立女子神学校の2年生で夏期聖書学校を開設するために、夏休みを利用して農村川和にきました。当時の主任者は病気で帰郷されたので川和キリスト教講義所には誰もいませんでした。場所は現在のバス停法務局前で、キリスト教講義所の看板がかかった小さな家でした。
私は、城戸先生(神学校教師)の後について家に入ると六畳と四畳半の二室でごみとほこりの汚れが目に入り、私は、ここでこれから一人で夏期伝道をするのかと思ったら急に悲しくなり、そのままそこに立って先生のなさることを見て居りました。先生は、外にバケツを持って水をくみに行かれました。道路の向こうの山際から水をくんでこられ、汚れた室をせっせと掃除され、七輪に火をおこし持参のお米を洗って炊き、さやいんげんの卵とじを作り、昼食をととのえられました。その間、私は只々悲しい思いで呆然と立って見ているだけでありました。
城戸先生は、私に「さあお食事にしましょう」と、私の立っているそばに座り食前のお祈りをされました。私は出てくる涙と共に御飯を飲みこみました。城戸先生は「涙を流していたら何も見えないよ」と言われるので、私は涙をふいて目が見えはじめたのです。すぐ後ろの田の畦道で小さい子供達が遊び、かごの中には赤ちゃんが泣いているし、母親は田の草を取って働いているのに気がついたのです。この子供達の為に私は何が出来るか、何とかしてあげなければと。その赤ちゃんをその子供達を懺話してあげたいとの思いが今日の川和保育園となってきたような気が致します。それから4年後、昭和7年に神学校を卒業し、川和の地に心ひかれて川和伝道所に主任教師として赴任を受諾し今日に至りました。
不思議な神のお導きと信じております。
横浜から八王子街道を下って五里半、川和村は静かな美しい田園でありました。村の人達は素朴で良い人達でした。戸数が230戸位でした。2、3人のキリスト信者の方々と話し合って私の出来ることは農繁期託児所からと思いました。
58年前は、家は小さく庭も無く、物も無く、金も無く、何もかも借物づくめでした。あるものは私の夢ばかりです。何十年かの後には裏の田んぼの真ん中に立派な保育園と、すばらしいパイプオルガンのある教会で、すばらしい礼拝が守られ美しい音楽が神に献げられ、神のみわざに参加する多くの人々が生まれる教会を夢みていたのです。
最初、集まった子供達は1オから6オまで15人、美しい瞳をしていました。
中山惣―二郎氏の農家の庭を借り、中山薫雅さんのお世話で妹さんの中山とよさん(現在金子とよさん)に保母さんになっていただき、ムシロ5、6枚敷いた青空保育所でした。毎日子供達の世話をしているうちに多くの人々から喜ばれ、協力と奉仕される人々も出来、農繁期託児所は年々盛んになり、遂には個人の庭では間に合わなくなりました。八幡神社の境内を借り、森や林の中を利用させていただき、自然の中で楽しく遊ぶ事が出来、誠に楽しい保育がなされ、田園風景に恵まれ共に楽しい生活が出来ました。朝に夕に祈りました。
私は寺田牧師と結婚しましたので家庭に子供が生まれ、子供をおぶりながら村の子供達と遊びました。夜は遅く迄、針仕事(生活の為)に働き育児と家事の為に時間をとり、朝早くから我が子をおぶり託児所を続ける事ができました。
私は、村の幼児から我が子から、多くの事を学びました。今日も幼児達は私の教師です。神が与えられた可能性が幼児一人一人の中に秘められているのです。寺田牧師は、コッコツとよく託児所の為に、八幡神杜の林の中にブランコ、スベリ台、砂場を作り、農家から古ムシロを借り集め、青空天井の大広間を作り楽しいお弁当やおやつの場所を造り、その場所がお昼寝の場所ともなるのです。
りんごの空箱を利用して机、本箱等も造り、知人から古本を沢山いただいて毎日の様に子供達に本を読んであげたり、古木、古材木の枝等で木工細工を楽しんだりして、子供達に工夫することをさせていました。いつの間にか十年の年月が夢のように過ぎ去り、託児所も20回続いたので県・市からモデル保育所(託児所)として表彰されたことも何回かありました。
村人の切なる要望に応え、中山恒三郎氏の御厚意により、教会の前の空地を借用して、戦雲急を告げる昭和17年4月常設青空保育園を開始しました。
場所が出来ても何の設備も無いので、私共の住居を全部開放して保育所に用いました。
いくらかの経験と情熱のみの出発でした。幸に神のお導きで献身的な保母が与えられたので、私共は幼児教育に重点をおいたのです。
「神と人々に愛せられる子供」「神のみことばに従う子供」「ありがとう」「ごめんなさい」「どうぞ」の生活が身につくように一人一人が良い人間となる教育、個性的な人になるようにつとめたのです。
村の子供達が気軽に入園できる様にと思い、川和保育園と名づけました。常設保育園ともなれば信者の有志も職員達のために助け祈って下さいました。
私共は、地域社会のために奉仕と祈りの精神にあふれて発足したものの、戦前のきびしさの中で物心両面の苦労を深刻に感じ、筆紙に尽くせぬものがあったのです。
寺田牧師は、昭和14年から農薬工場で働き、保育園と教会の経営を助け、私もまた保育の実際指導面を引受け、給料なしで夜も昼も夢中で働きました。太平洋戦争中は戦時保育園となり、村人と共に乳幼児の保護育成に身も心も労しました。
神を礼拝することに対し、平和主義者の牧師というので、しばしば警察の臨検にあい獄舎に投ぜられ、信徒も一人だに教会出席が出来ないまでにされ、牧師は敵国の宗教を信じ布教する非国民と非難され投石されたのです。天皇に対し不敬人物とされ、警察に留置されることも度々でした。
戦火が激しくなり本土空襲が始まりました。牧師は、幼児達を守るために百人の子供達の入れる大きな防空壕を造ったのです。親が死んでも子供だけは育つ様にと、その中で生活が営めるように便所、台所付き、子供達が安眠できる様にと裁板を15枚利用してベッドルームまで造って、人間の生命を守り給う神に祈りつつ、子供達を大切に立派な防空壕を造りました。給料35円(農薬工場)全部用いたこともありました。明日の事はと私が心配しますと、神は凡てをご存知だ、園児のこと、家族のことも共に神が知り給うから心配するなと申しておりました。
今になるとその信仰の態度がなつかしゅう存じます。
やがて苦しかった戦争も終わりを告げ、日本は敗戦国となり食料不足に悩まされ、園児も母親も困りきっていた時に、思いがけなくララ物資が送られたので、大いに空腹を満たした事もあり、幼な子と共に喜び、共に生きる事が出来ました。
敗戦の痛手のまだ生々しい時に新しい日本の建設には幼児からと志を新たにし、保育園の基礎造りを始め、中山恒三郎氏、中山幸三郎氏、村の人々の協力と奉仕により100坪の土地を借り、35坪の集会所兼保育園を増築し、現在の教会の場所に於て公認川和保育園となったのは昭和24年4月でありました。
寺田牧師は初代園長となり、私は主任保母として現在まで働く事が出来たのは神のめぐみと多くの方々のおかげと感謝に堪えません。
その後、毎年園児も増加し、中山恒三郎氏は必要に応じ広大な土地を園舎に運動場にとお貸し下され、町の多くの人々と共に土埋めの仕事がなされ、園長は毎夜三年間も土運び、地ならし、増築を幾度となく続けて今日の保育園の基礎を造りました。
つまるところこれは人間わざではなく、神が川和の地に教会と保育園の基礎を造られたと私は信じます。神の深い御計画とわざを信じるならば58年の保育園のあゆみに対し見方は異なってくると思うのです。人間の思いや計画ではなく神が主体で多くの人々に働きかけ保育のわざをなさせて居られ、私共は神の保育のわざに参加させられている様に思います。
神は58年の歴史の中に働いてどんなに多くの人々に協力を語りかけ、多くの人々に奉仕、献身、祈り心を与えられ、多くの保母達に幼児に対する熱情をおこさせられたことを思い、神は川和保育園を守り、導き、幼児を祝福して居られると信じます。
この様に、いと小さい者のために互いに思いやり、助け合って生きていく事は神の国の姿であると信じます。主の祈りにありますように、御国がきますように、みこころが天に行われるとおり地にも行われることを切望してやみません。